東京で見る雪

第26回、今回のテーマは『東京で見る雪』
お題は随分と昔に@take_1rowから貰いました。先日はご馳走様でした。
そろそろ桜も満開になるとかで、暦の上に留まらず、肌に感じる空気も春めいてますね。日記のタイトルからイルカの『なごり雪』を思い起こせる人がどれくらい居るかは分からないけれど、何となく書いてみる気分になったので久々にこのタグを使います。
今年は東京でも随分と雪が降りました。1月半ばの大雪では、自宅前の坂道でも道路脇に寄せ集められた雪が氷塊へと化けて、日陰では1週間ほど残っていました。雪国出身の方からは、これっぽっちの積雪で交通インフラがこんなにも乱れるとは、と少しばかり誇らしげな声色で評される東京の雪ですが、積雪というのは東京にとって非日常なのです。
そう、非日常なのです、東京で見る雪というのは。
四季を通して代わり映えのないコンクリートジャングルが、一夜にして銀世界になる驚き。道端に残ったまっさらな処女雪を見つけては、裾が汚れるのも気にせずに足跡をサクサクと刻む楽しさ。小さい雪球を作ってみようと素手で雪を掬い取り、予想以上の冷たさに慌てて投げ捨てた後の手のヒンヤリした感覚。

柄や能力にない文章を書こうとしたせいで、1日放置する羽目になったので、諦めていつも通りの乱文で行くことにする。要は東京において雪は非日常だよねというのがここまで。それでだ。非日常である雪が降ろうが、いつも通りの生活を送らなければならない人がいる。というか、送らないでいい人なんて本当に限られた人だけだ。交通機関がマヒしない限り学校も会社もあるし、たとえマヒしたとしても社会人だと気楽に休むわけにもいかなかったりするだろう。僕には分からん話だが。
本数が減るせいでいつも以上に混む電車。その分だけ急ぎたいのにツルツルと滑り怪我をするかもしれない道路。子供の頃あんなに興奮し、歓迎した雪という非日常が、いつの間にやらメンドくさくて厄介なものに変わってはいないだろうか?

あの頃と現在の間に、見えない亀裂があるから

とは真綾の『真昼が雪』の歌詞だけれど、東京で生まれ育った人は、どこかしらでこの亀裂を飛び越えたのではなかろうか。勿論、全ての大人が雪を厄介なものと捉えてはいないだろうし、雪が嫌いな子供も居るだろう。それでも、この感覚は一部の人には受け入れられる気がするので書いてみた。ちなみに、僕は家から出ないので、ワクワクしながら窓越しに降る雪を眺めてた。
僕の亀裂はどこだろう