見えるまで聴こえない音

久し振りに書いたと思ったサブスク解禁時の記事が、既に2年近く昔のことだった。時が経つのは早い。
FGOの6周年記念で配信された坂本真綾ライブ関連で、20年前の音楽体験と似た感覚に陥ったのが面白かったので、覚束なくなる一方の日本語を振りまわしてみる。

20年前の萌えポイント

google検索には、インターネットの海に放流されたあらゆるコンテンツが未来永劫残り続けると思っていた。けれど、現実は悲しく難しいもので、これから書こうとする内容の裏を取るのは簡単ではない。なので、話半分で読んでもらいたい。

今から20年ほど前、"坂本真綾ミュージックファイル"という名前の、管理人が採譜したギターコード譜がメインコンテンツのファンサイトが存在した。まだSNSなんてものは存在せず、ファン同士のコミュニケーションの場は、2chや有志のファンが運営するサイト内の掲示板が主流だった時代だ。

当時の自分はまだ”とーかみ”というHNも名乗っていなかったし、ファンとして活動的でも無かったので、分数コードが出てこない簡単な曲を、おっかなびっくり鳴らしたり、他の人たちの掲示板のやり取りを眺めたりの、単なるROMユーザーだった。

その掲示板に書き込まれていた内容で、今でも覚えてるものがたった1つだけある。それは、kawaguさんというサイト管理人さんの書き込みだったと思うが、

『指輪』のラスサビ「遠くても」の直後にある、渡辺等のベース3音に萌える

というものだ。
表現や前後の文脈は適当だけど、重要なのは、実際にその音がそこで鳴っていることと、自分はその書き込みを見て実際に聴いて確かめるまで、その音の存在を意識していなかったことの2つである。

原曲の2:46くらいの(この埋め込みだと残り5秒くらい)箇所なので、聴いて確認してみて欲しい。余談だけど、この3音はsingle verと23カラットverでは聴けるけど、サントラ収録のalbum verと英語verでは聴こえない気がする。

採譜したりコピーバンドで演奏したりと、音楽的な素養がある人なら意識できる音も、のほほんと聴いてるだけの自分では、その存在に気付けないというショッキングな体験。その後の自分の音楽への向き合い方を劇的に変えた訳では無いけれど、それでも折に触れて思い出さずにはいられない出来事だった。

あれからいくつも歳をとり

自分がtwitterを始めて13年以上経つが、坂本真綾ファンとして言動をオープンにしてきた13年なので知り合いも増えた。その内の一人である”彼”に対しては、色々な感情を抱くのだけれど、一言で表すと尊敬となる。こんな取り上げられ方を彼は不本意に思うかもしれないが、書きたい内容からはどうやっても言及を避けれないのでどうか容赦して欲しい。

awatchfulprotector.blogspot.com

冒頭で書いたFGO6周年のライブに対する彼の感想エントリー内に、次のような記述があった。

歌と伴奏という観点で評価すると3曲目の「躍動」が良かった。音の隙間がちゃんと作られていて、楽器編成上の入れ替わり立ち替わりが明確で弦上2声だけじゃなく下2声への配慮が編曲と演奏ともにあったから。具体的な箇所としては2h27m56sなど。

下に該当箇所のリンクは貼るが、期間限定のアーカイブなので直ぐに機能しなくなってしまうのが残念。
言及されてる箇所を言葉で表現すると、『躍動』の2コーラス目Bメロの「指で何度も触れた星座」で、カメラワークが1st,2ndバイオリンを横から抜いてる場面。揃って弓を上に抜くカットが決まってる直後に、右チャンネルで下っていく弦の低音パートのことだろう。

この箇所を自分で確認した時に咄嗟に思い出したのが、前半で書いた『指輪』のベース音での体験だった。どちらも低音部分に関するのは偶然ではないだろうけれど、本旨からは少し離れている。
"配慮"という彼の表現は編曲者の立場からに思えるけど、リスナーである自分はこの先死ぬまで、この音源を聴くたびにこの低音を意識せずには居られないだろう。まるで呪いのような言い回しになってしまっているが、ポジティブなので"祝い"だろうか。

彼もまた音楽的素養のとても高い人間で、その指摘に至るまでに積み上げた何万時間もの研鑽があっての話であり、自分はそのはしっこをかじらせてもらったに過ぎない。けれど、逆の表現をすると、彼らが音を音として受け止めた体験は、噛み砕いて文字で表現して貰うことにより、その片鱗だけにせよ凡人でも体感できた話とも捉えられる。

ライブの編成が発表される度に編成に弦が居ないのを嘆くのは簡単だけれども、猫に小判、豚に真珠、とーかみに弦カルではどうしようもない。少しでも音を音として受け止められるように、40の手習いへと立ち向かいたいねというお話。