外で音楽を聴くこと 家で音楽を聴くこと

第5回、今回のテーマは『外で音楽を聴くこと 家で音楽を聴くこと』
お題は @fluorspar より頂きました、あんがとー。
お題を貰って真っ先に思い当たったのは、出かける時はヘッドフォンを常に着けていて、それは外部のノイズを遮断しているかのようだと、半ば自嘲的に述べていた真綾だった。ソースが見つからなかったけれど、ここ1年以内だと思う。
自分も家を出るときには、たとえ徒歩数分のコンビニの往復だとしても、ipodを持っていくことが多い。冬場は防寒も兼ねてヘッドフォンで、夏場はイヤホンでだけれど、それはノイズを遮断したいからよりは、耳を遊ばせておくのが勿体無いからという理由だ。当然に周囲の音が一切聴こえないくらい音量を上げて街中を歩いてれば危険だというのは知っている。接触事故が多発してることも一因だろうが、都内ではヘッドフォン等を付けながらの自転車運転は条例で禁止になっている。
それでも、聴覚が完全に音楽に占められていても、トラブル無く出かけて帰ってくることは別に難しいことではないし、携帯やスマフォを弄りながら歩くよりも、よっぽど安全だろう。聴いてる音楽のテンポに合わせて足を運んだり、出かける先やそこで会う人、自分のコンディションや周囲の景色に合わせて聴く音楽を選ぶ楽しみもある。自分にとって、家の外に出ることは音楽を楽しむための1つの手段なのだ。


一方で、家に居る時は音楽を聴いてるようで、実はそこまで聴けてない。自宅での音楽再生デバイスはパソコンなのだけれど、パソコンを使ってるとゲームやら動画やらに聴覚を奪われてしまうため、純粋に音楽だけを耳に届けられる時間が思ったより短いのだ。ustreamの音楽イベント配信みたく、音楽を映像と同時に楽しめる時間はそういう意味では貴重で、家の外にライブやコンサートに出かけるのと同じような体験をしてるとも言えるだろう。
若かった頃は、音楽を聴くのに専念するために目を閉じて視覚を遮断し、脳内に響く音を全力で味わうという行為を、それなりな頻度でしてたのだけれど、20前後ですっかりその習慣は廃れてしまった。音に溺れるという贅沢な時間を持てなくなったのは、現実に時間の余裕がないというよりは、他の器官を遊ばせておくのが勿体無いという思考が働いてしまう、心理的な原因によるものだろう。
記録媒体や、再生装置の進化によって、音楽はあらゆる場面に持ち込むことが可能になった。そして、聴覚が音楽に占有されていたとしても、それとは無関係に行える行為が世の中には無数に存在する分、音楽は"ながら"のお供として遍在すると同時に、薄れていってるのかもしれない。それは進化でも退化でもある。お終い。
SWfTAの記録31:48