ミュージカル

第6回、今回のテーマは『ミュージカル』
お題は多分 @egoalu より頂きました、めるしぼくー。
過去にミュージカルを見に行ったことは多分5回きりだ。本当に幼い頃、親に連れられて『アニー』を見た(気がする)のが初めてで、2回目は2002年に真綾が出演したLETTER−bring to light−、3から5回目は全てレミゼラブルである。語るほどに鑑賞経験があるわけでもない。でも、ロンドンで見たレミゼが余りに印象的だったので、ロングランを続けてる有名な公演は1度は見に行きたいと思っている。
厳密なミュージカルの定義は知ったことじゃないが、歌の存在を切って離すことは不可能だろう。ボイルさんが歌ってた『I dreamed a dream』や京都に行こうのCMの『my favorite things』など、元のミュージカルを見たことがない人でも聴いたことがあるだろう有名な曲もいっぱい存在する。

登場人物の心情を表現するのに歌の形を取ることには、幾つかのデメリットがあると思う。1つには、役者の音域や声量に合わせて曲が作られるケースはレアなので、サッパリ歌えてないならば興が醒めることもあるだろう。幾つものオーディションを経て、ミッチリ練習を積んで舞台に上がってくるケースが殆どであろうけど、当日のコンディションの問題もありえるし、やむにやまれぬ事情もあるかも知れない。2つ目として、初見の人が歌詞をちゃんと聴き取ることは、そこまで容易なものではないということだ。メロディに合わせた譜割りに多少の無理は致し方ないのである。
話の筋を追うのに何よりも重要である、登場人物の口から出る言葉を多少なりとも犠牲にして、それでもミュージカルという分野で、エンターテインメントとして傑作の名に相応しい作品が何本もあるのはなぜか。それは、曲のメロディが、言葉の犠牲を補って、尚も余りある力を持っているからだと僕は思う。場面に合わさったメロディは、時として暴力的なまでに感情をコントロールする。『master of the house』では愉快になるし、『on my own』では切なくなるし、『one day more』では血が滾ってしまうのだ。

『嬉しい』という何でもない台詞に、Cメジャーの和音を重ねた場合と、Cマイナーの和音を重ねた場合とで、僕らはどんな印象を受けるだろうか。後者では、『嬉しい』の後に逆説の接続詞を想像してしまう人が少なくないと想像する。同じ映像に対して、様々なBGMを当て嵌めることで、全く異なる印象を与えることが出来るという話も、よく見聞きするものだ。
これらの音と感情とのマッチングは、生理学的に証明されてる先天的な感性なのか、経験から培ってきた後天的なものなのかは、浅学なもんで存じ上げない。でも、ドミソの3音の空気の振動に対して、条件反射で人間の脳内で”明るい”という趣旨の信号が飛び交うのなら、随分と単純な生き物なんだなーと思ったのだ。明るいは楽しくて、暗いは悲しくてと派生するかは別の問題なのだろうし、その他の色んな感情を音によって想起させられるかも知ったことではないが。
話が逸れてしまったので、ここらで終わっておこう。新演出に変わったというレミゼを見に行きたいので、誰か暇だったらご一緒しましょう。今回はまた2Fの後ろの方から見るつもりだけれど。お終い。
SWfTAの記録40:50