写真

第15回、今回のテーマは『写真』
お題は @fluorspar より頂きました、ありがとう
写真という単語から真っ先に連想されるワードが、直視に耐えない.jpgという時点で色々と察していただけると思うけれど、それはそれとして何か書くのがこの企画なので頑張ってみよう。分りやすいので、撮られる場合と、撮る場合で考えるべきか。事象として写真を客観視するのも楽しそうだけれど、上記の2つを書いてるうちに膨らませそうなら書いてみる。
撮られる場合。最近だと殆どが真綾クラスタでどこぞに出かけた時になるか。立派なカメラを構えた人が何人も居て、肖像権なんて存在しないかのごとく撮られまくる人もいる。自分は被写体としては下の下の部類なんで、ちょこちょこ映りこんでる程度だけれど、それでもこの1年で随分と自分が映ってるjpgがHDDに溜まってしまった。
自分の映ってる写真が直視に耐えないのは自分のせいなのだけれど、カラオケの歌声や、ラジオの喋り声を録音して聴いた時の気恥ずかしさに似てる部分も、少しはあるのだと思う。鏡で見るてめーの面は、言うなれば自分の耳に聞こえてくる自分の声であり、他人が見てる自分の顔は、写真やビデオに映ってる自分の顔なのだろう。自分にとっては耐えられなくても、他人は同じ空間に居る段階で半強制的に押し付けられてるものなんで、より可哀想なのはどちらかと言えば自分以外だ。が、彼らにとってはそれが普通なんだろう。コンプレックスをこんなところで吐露してもしゃーないか。背筋伸ばすくらいは自助努力すべきだわな。


撮る場合。所有するカメラはパナソニックコンデジが1台くらいだけれど、撮る方はそこまで嫌いではない。けれど写真を撮る技術もセンスも持ち合わせてない。それらは一朝一夕で身に付くものでもないだろうし、お犬様達の写真とか見ると、どうにも埋めようが無い機材の差を感じることもある。
けれど、何よりも感心するのはシャッターチャンスを掴むのに費やす努力だろう。集合写真みたいなのだったら苦労はしないが、さり気無いオフショットの中で魅力的な1枚を撮ろうとすると、尋常ならざる時間ファインダーを覗いてなければいけない気がする。カメラマンはある程度その空間のアウトサイダーにならざるを得ないので、滅私奉公みたいな部分が必要だと思う。勿論撮ってる人は、撮ってるのが楽しいんだから気に病む必要はないのだろうけれど。
だから、自分にとって一番楽しいのは自分と被写体が1:1の時に撮る写真だ。相手に言葉をかけてリアクションを貰いつつ撮るもよし、相手を風景の中に落としこむもよし。自分という存在を殺すことなく記録を残せるなら、もっとカメラというツールを利用してもいいかなーと思う。といいつつ、そんなことをした経験は過去に幾度とないけれど。あの写真の中には割と気に入ってるのもあった気がする。


撮る、撮られる以外にも、見る写真というのが特にWEB界隈では発達してるのかもしれない。画像検索もそうだし、twitter連動の写真投稿サイトもいっぱいある。けど、素敵な画像は探すのに苦労が要らない分、よっぽどの動機付けがないと頑張れない。たまーに他人のtumblerとか見ると面白いことは面白いんだけれどね。うん、ボチボチ限度なんで終わり。
SWfTAの記録24:58