続・坂本真綾はエンターテイナーか

主に自分の中でだけブームになってる、坂本真綾はエンターテイナーなのかというお話について。
一昨日に公開したエントリーの後半部分、坂本真綾の段落冒頭で、自分は

坂本真綾は生粋のエンターテイナーでは決して無い。

なんて大上段に構えてみたりした。MCの件が思ってたよりも長くなりそうだったんで、アクセントを付けるために突拍子もないことを文頭に持ち出すという、効果があるのかもよく分からない文章テクニックもどきだったというのはここだけの楽屋話。
あそこで言いたかったのは、『坂本真綾という表現者はどういうものなのか』と自己言及をするライブでのMCは、エンターテインメントとは少しズレると思うという僕なりの意見でした。『エンターテイナー』や『エンターテインメント』という単語を僕の脳内概念をぴったり表現するものと思い込んで使ってるせいで、他人にはどの程度伝わったのかも怪しいけれど。
自分でも不確かなのが性質が悪いけれど、浮世を忘れられるような、或いは外界とは切り離された空間そのものに酔いしれるようなショーを演出できる人を『エンターテイナー』と呼んでるんだと思います。

で、先日@terminと攻殻SACを肴にチャットしていて、第12話 「タチコマの家出 映画監督の夢」のBパートに話が及んだ時に、坂本真綾はやっぱりエンターテイナーだったのかなと思い直したんで、今このエントリーを書いてたりします。したがって、当該作品を見てない人には、恐らく意味が伝わりづらいと思うので先に謝っておきますね。でも、見て損はしない作品だと思うので、時間作って見てみてくださいな。
ストーリーを凄くざっくばらんに纏めちゃうと、とある映画が素晴らしすぎて、いつまで経ってもその映画館から出てこれない人達が描かれています。それに対して主人公は

どんな娯楽も一過性だし、そうあるべきだ。始まりも終わりもなく、観客を手放さない娯楽は害にしかならない。観客には戻るべき現実がある。

と批判する。それに対して別の登場人物が

戻るべき現実が不幸でしかない連中に対して、娯楽という夢から覚めろと言うだけの責任を負えるのか

と問いただす。それに対して再び主人公が

負えない。が、夢は現実の中で戦ってこそ意味がある。他人の夢に自分を投影してるだけでは死んだも同然だ

と返すというお話。最後の1文が個人的にはグッサグサ刺さるんだけれど、このエピソードを踏まえて坂本真綾のライブを娯楽に当て嵌めるとどうなるか。

映像化されたかぜよみツアーでの『ポケ空』前でのMCとか、武道館での所々のMCを聴けば分かることがあります。坂本真綾は、ライブとかファンクラブとか、大勢の人間が何かのきっかけで集まる場というものの大切さを語ると同時に、それ以外の『普通の日』とも呼べる日常をかげがえの無いモノとして積み重ねるべきだとお客さんに呼びかける。仕事に忙殺されたりして自分でも中々実行には移せてない、とその困難さを自覚した上で、それでもそうなれるのが目標だと言葉にする。
ライブというハレの舞台の素晴らしさを語りながらも、日常というケをしっかりと見つめるべきとする姿勢は、先述した攻殻のそれほど極端ではないにせよ、やっぱりエンターテインメントの本質を捉えてるんじゃないのかなと思ったりしたんです。twitterで漠然と呟くには、少しボリュームが多かったんで補足という形のエントリーにしてみました。