ポケットを空にして

国フォ公演の感想に入れるには気持ち悪かったので除外。それなりな字数を費やして書いてるのは、感情がそれだけ大きいのではなくて、余りにも些細な違和感で説明するのが難しいから、クドイ位に文章を重ねてるのが原因だ。
読んでて愉快になることはありえないし、坂本真綾に関する物語を作るという自分の悪い癖が出てるから、気分悪くなるのが嫌な人はお引取りくださいな。特に、最後の"元気玉"のとこは読むなら覚悟して欲しい。明確な意志を持って、読み手に悪意をぶつけている。
国際フォーラム2日間のライブで1曲だけ取り上げるのならば、自分はこの『ポケットを空にして』(以下ポケ空)になる。曲に対する客の関与が最も大きく、ライブという特別な場と日常との橋渡し役をする、坂本真綾ライブの鉄板曲だ。今回のツアーでも厚木から国フォまで、ずっとアンコールの最後に歌われてきた。けれど、その歌の持つ意味は、本人に3部作と区切られた、その区分に従って変化してきてる気がする。
具体的な中身に移る前に、YCCMライブに参加してない人の為に3部作という表現を説明しておくと、震災前の、本来予定されてたYCCMツアーのセトリで行われた厚木と福岡の公演が1部。震災によって札幌と仙台が延期となり、再開した名古屋から大阪、中野2daysが2部。今回の国際フォーラム2daysから札幌・仙台までが3部らしい。

1部

本来のYCCMのセトリだった厚木と福岡でのポケ空は、定番のお約束として配置されていた。もう少しちゃんと書けば、ハッピーな気持ちでライブというハレを終え、また1日1日を頑張って行きましょう、そんなメッセージが込められた曲になってる。1部でのポケ空は、FCイベントや、Gift武道館でのポケ空と、そこまで大きな違いはないと思う。もう記憶の外だけれど、厚木ではみんな笑顔で歌っていたんじゃないだろうか。

2部

それが震災を経てツアーを再開した時に、1つの意味が付け加えられた。自分は名古屋公演に参加してないから、参加者の伝聞や中野でのMCからの想像になるけれど、端的に言うなら、2部でのポケ空は、観客が歌うことで坂本真綾を励ます曲として、セトリの最後で機能していた。
中野初日のポケ空前のMCで、名古屋・大阪のポケ空はまるでゴスペルみたいだったと真綾は形容していた。更に、観客の歌声を聴き易いようにアレンジを変えてもらったので、歌える人には歌えるだけ全部のパートを歌って欲しい。そして、翌日の公演をやりきるための力を分けて欲しいとまで言葉にした。
震災から2週間ちょいで、世間には自粛ムードが色濃く漂っていた中でのツアー再開だったので、考え抜いた上での正しいと思った行為であっても、やっぱり不安に思う部分があり、後押ししてくれる何かが欲しかったのかなと思う。ライブの頭から終わりまで聴いてきたお客さんに、良いライブだったよと背中を押して貰えるなら、次の会場まで足を進めることが出来るから。
このポケ空に関しては、特に引っかかることは無かった。なぜなら、真綾の歌声にポジティブなモノを貰えた人が、真綾に歌声でお礼を返していて、その場でやりとりが完結してるから。

3部

そして、3月31日から2ヶ月が過ぎたこの国際フォーラムでは、ポケ空には更なる役割がくっつこうとしてた。久しぶりの再開で緊張感には包まれながらも、震災とそのライブに対する影響についてMCで触れる程度に真綾も落ち着きを取り戻し、もう直ぐツアーが終わるのが寂しいと口にする余裕もあった。でも、ポケ空の表情や歌声は、自分には中野サンプラザと同じか、それ以上に余裕の無いものに見えた。4日の公演では客にマイクを向ける真綾をずっと双眼鏡で追いかけたけれど、その表情は時に悲痛で、穏やかとはかけ離れたものだった。今の真綾は観客の歌声に何を望んでいるのか? その答えは15日の仙台公演にあるんじゃないかと僕は思う。

坂本真綾は国際フォーラムでのポケ空前のMCで、ツアーファイナルが仙台であり、そこに義捐金だけじゃなくて何か違うものも届けたいと口にしていた。真綾にとって仙台でのライブは、YCCMツアーでは唯一の、被災地での開催となるライブだろう。厚木から始まり、そのMCの段階では国フォまで、会場に足を運んでくれて、同じ時間と空間を共有し、大声で歌ってくれた観客の声をメッセンジャーとして仙台に届けたいという坂本真綾の心意気は素敵だと思うが、僕には引っかかるものがあった。それは、ポケットが空だとか、目当ても無いとかの曲の歌詞と、みんなの思いを持っていきたいという真綾の意志が矛盾するからではない。
名古屋公演の開催が決定した時に発表された2つの真綾の文章は、被災者に向けてというよりも、むしろ坂本真綾自身も含む直接的な被災者でない人に向けて書かれている。こと震災に関して、彼女は現実主義的な立場を取っていて、中長期的に被災地外の人が支援を続けられる枠組みを作るべきという内容に筆を尽くした。僕は聡明だなという感想を持ったけれど、一方で被災者に向けた言葉がまだ見つからないのではという気もした。

”被災地の人々が芸術や娯楽を必要としてくれる場面は、もうちょっと先の未来にやって来ると思います”と書いたその未来が目前に迫っている。自分の歌声や言葉は本当に今の被災地で必要とされているのか、もしくは必要としてくれる人が居たとして、その人達に何か良いものを伝えることができるか、坂本真綾はその事に不安を感じているのではないかと僕は想像した。みんなの声を届けたいというのは半分は本当だけれど、もう半分は自分の不安を和らげて、仙台の公演へと向き合えるように勇気付けて欲しいのでは。国フォでポケ空を歌っている坂本真綾の表情をどう解釈すればいいのか、悩んだ結果の自分の答えがこれだ。自分が仙台に行くのを怖がっているように、あの人にも怖がってて欲しいのかも知れない。ふざけた話だ。

元気玉

少し話をずらすとしよう。坂本真綾がどういう想いでポケ空を歌っていたかは、本人にしか分るはずもないし、時期が来たら言葉にするかもしれないが、どちらにせよ僕の手の届く範囲には存在しない。より重要な問題は、観客席に居た自分自身にある。国際フォーラムのポケ空を上で書いたように意味づけるのならば、あそこでポケ空を歌っていた自分は何なのだろうか? その事を考えてた時のpostを次に引用する。

『ポケ空』の話を説明するのに、元気玉を持ち出せば分りやすいんじゃないかと思いついて、余計に悪い方向に進んでいる
http://twitter.com/tookami/status/77188970685018112

軽く調べてみたら、ポケ空と元気玉を絡めて書いてた人が他にもいたので、発想としてはそこまで突飛でも無いと思う。元気玉の説明は悪いけれど省略させてもらう。『オラに元気をわけてくれ』って真綾が言って、会場のみんなが歌ったと構図を重ねるのは簡単だ。ただ、僕は元気玉という単語をネガティブなニュアンスで思いついた。ポストカードやクリアファイルの義捐金元気玉と重ねても問題ないけれど、ポケ空の歌声はそれとは厳密には異なると思うからだ。
どんなに客が心を込めて歌っても、元気玉は実体を持って生まれたりはしない。仙台に足を運んで被災地の人と向き合うのは生身の坂本真綾でしかない。あの人は『ストロボの空』のごとく、全身で受け止めて戦う覚悟があるのだろうけれど、それを彼女に期待していいのは彼女自身だけだ。自分がライブ会場でポケ空を歌えば、坂本真綾がポジティブなものとして仙台のお客さんに渡してくれるだなんて考えは、ナンセンスでホビロンだ。
自分の国際フォーラムでの歌声は、坂本真綾があの日受け取った何かの1/5000には成ったかもしれない。でも、それは15日の仙台で参加者が坂本真綾から受け取る何かとは一片たりとも関係が無いと思う。僕の感じた引っかかりはこの考えに起因する。

この考え方を自分以外の人に対して当て嵌める気は毛頭ない。これは大した行動も起こさず、コミュニケーションも取らず、コンテンツを淡々と消費してる自分への戒めだ。僕が仙台公演に行くことを決めたのは、半分は坂本真綾が何を語るかを知るためで、もう半分は被災地と被災した人の状況を自分の目と足で確認するためだ。何とも身勝手な話だな。
ポケ空を合唱して楽しい気分になれば、直接に被災地までは届かなくても、周囲へと順々に伝播していくという考え方もあるだろう。『風待ちジェット』のMCの趣旨はそんなだった。でも、そんなのは坂本真綾みたいに影響力の大きい人間だけが使える方便だと僕は思っている。あの人は自分の言動の影響力を十分に理解して、半ばそれに縛られて動いてるようにすら思える。でも、それが坂本真綾の生き方なのだろう。僕はただ単純に尊敬する。
不幸なことに、ここまで文章を読んでしまった人は、ポケ空を歌うことで楽しい気分になることが出来なくなるかもしれない。限られた周囲にネガティブな感情を撒き散らしてでも、このエントリーを書きたいと思ったのは僕のエゴだ。軽蔑するんでも、鼻で笑うんでも好きにしてもらっていい。これが僕の考えたことの全てだ。