適当日記

毎日1行くらい書く宿題が小学生のころにあった気がします。真面目な自分は当然、最後の最後にまとめて書くわけですが、何を言いたいのかと言うと、サボりまくってごめんなさい。
ということで、"偽善"についての続きですが3日も間を置けばそりゃモチベーションも低くなるわけで、端的にまとめるとします。
言いたかったことは、善行と直接的には関係のない第三者の評価でしかない"偽善"という概念は大して重要じゃないんでない?というのが1つ。100人中99人が偽善だと思おうが、逆に99人が本心からの善行だと思おうが本質的な違いはないのではないかと。善行を受け取る側がうわべだけだなと思った場合は、恐らくその時点で善行ではないです。
もう一つの主張は、実際に善行を行なったのなら、それは確実に本心からだということ。やらないより、やったほうがメリットがあると考えて行動してる時点で、本心からだと言えると思うわけです。困っている人がいるから助けた、ってのは、単にそれを見過ごす事が自分にとって心地よくないか、助ける自分を他から評価されたいか、若しくはそれの混合かでしょう。なんとなく前者が本心からで、後者が偽善だという風潮がありますが、当事者にすら判らない比率によって誠実だ偽善だなんて決めるのもナンセンスとしか思えません。
そもそも偽善うんたらについて考えたのは大分前のことで、2chねらでも偽善でも、アフガニスタンに学校を作れるんですを見てたときによく議論が交わされてたからなんですが、何かこういうのを見てると人間って楽しいなと思います。最後に適当に拾ってきた諺をコピペしてお茶を濁す
偽善とは悪が善にささげる敬意である